まだ見ぬ癒しのタイランドへ

◆連載にあたって◆

 「バンコクだけを見てタイを語るなかれ」とはよく言われますが、確かに私たちの知るタイ王国は、まだまだバンコクとアユタヤなどその近郊に限られていると言ってよいでしょう。近年、タイを訪れる観光客は世界的にも増加の傾向にあり、私たち日本人にとってもようやく北部のチェンマイなどが人気のようですが、タイという国は広大で、ほんとうの良さは私たちのまだ知らない各地にあると言っても過言ではありません。

 今月より、リタイアメント情報センター・ホームページ上にて、極上の「まだ見ぬ癒しのタイランド」各地へご案内することにいたしましょう。読者のみなさんが今後タイ王国を旅するにあたってご参考になれば、筆者にとってもこの上ない喜びであります。

 旅の楽しみは美しい風景、美味しい食べ物、その地域独自の歴史や文化に触れることなど人それぞれですが、「人」との出会いもまた重要なものではないでしょうか。連載第1回は、同国にてご活躍のある人物にスポットをあててみることにいたします。
【小田俊明】

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まだ見ぬ癒しのタイランドへ -1-

=序章=

 某週刊誌の巻頭グラビアに「私のリビング」というコラムがあり、毎回著名人の煌びやかで個性的なリビングが紹介されている。しかし、ここに紹介する質素な高床式住居にある「私のリビング」は目をみはる華やかさや豪華さとはまったく無縁である。唯一目につく書架には農業や環境問題の書物に埋もれ、無駄なものは何ひとつとしてない。

 昨年、平成19年春の叙勲にて旭日双光賞を受章した谷口巳三郎博士の居室である。氏は現在、タイ王国北部、パヤオ県の鄙の村にて自ら創設した「谷口21世紀農場」を営む。

 昭和58年2月、熊本農業大学校教官を退官した氏は私財を投げ打って北部タイへと渡り、貧しい高地民族の支援、農業技術指導、次世代を担う農業青年の育成に乗り出す。しかし、そこで待っていたものは想像を絶する貧困の連鎖であった。挫折に次ぐ挫折、7回におよぶ転地を乗り越え、平成2年に現農場を開設、ここに大いなる挑戦が始まる。荒地を開墾して緑の田園とし、5万本を超える木を植え続け、その活動は農業指導にとどまらず、この地でも大きな社会問題となったエイズ患者とその家族への支援など多岐に渡り、偉業の数々は枚挙に暇がない。


 自らの信念でタイに渡り、貧困にあえぐ山岳地帯や農村部でその意志を貫く氏は「今、君の瞳は輝いているか」と問い続け、自らが育てた青年たちを「この若者たちを見よ」と言い切る。人々に農民としての誇りを植付け、生きる夢と勇気を与え、アジアと日本の国際交流を担う人材を育て上げた氏の意志はもう「神の領域」なのであろう。

 当年85歳となる谷口巳三郎氏はミャンマーやラオス政府の要請により、両国にも21世紀農場を立ち上げるべく、また新たな挑戦に入った。

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神の領域
谷口21世紀農場 ~ 今、君の瞳は輝いているか ~


















 北部タイを縦貫する国道1号線はランパーンからパヤオ、チェンライを経てタイ最北の町、メーサイへと続く。北部最大の淡水湖クワン・パヤオに臨むパヤオ市からチェンライにかけての東側一帯はガイド・ブックの類もなく、あえて観光客が足を踏み入れる地ではない。
(農場への道、植林道路)
 パヤオ市街から北東におよそ1時間、20ヘクタールにおよぶその農場は懐かしい田園風景の広がるチュン郡サクロウ村の一角にある。今回は谷口巳三郎博士の21世紀農場を訪ね、その足跡をたどってみたい。

 谷口巳三郎氏は1923年(大正12年)11月1日、熊本県八代郡坂本村に生を受ける。日本三急流のひとつ、球磨川下流の美しい棚田が広がる山村である。

(21世紀農場正門)


 その少年時代は働き者であった母サノの影響からか、意志が強く気配りの行き届いた優しい少年であったと言われる。旧制八代中学から神宮皇學館に進むが、性に合わずこれを自主退学、鹿児島農林高等学校(現・鹿児島大学農学部)に学ぶ。
 やがて学徒動員により予備士官学校を経て南方戦線に投入されるも、ここで終戦を迎える。復員後は同校に復学し、1948年(昭和23年)卒業、農業指導者としての第一歩を踏み出すこととなる。

 氏を語るによく引用される「肥後もっこす」という言葉がある。「頑固一徹で無骨な人物・性格」を表す熊本の方言である。これはこの地方の歴史・風土によって育まれたものであろうが、「人国記」には「肥後武士の意地、筑前・豊前両国を合わせたるより上」「意地は熊本気は薩摩」といった記述もあるとのことだ。

(21世紀農場)
 その後、誰もが二の足を踏むような長く険しい道を歩んだ氏の足跡を振り返る時、肥後熊本に生まれ、多感な青春時代を薩摩鹿児島に学んだ氏の人となりがおぼろげにも浮かび上がってくるような気がする。

 卒業後、故郷を後にした氏は長野県の八ヶ岳実践農業大学校で農業の実践を学び、「農業の指導者たるもの自ら鍬と鎌を握り、それで始めて飯を食えて大口がたたけるものだ」という信念を会得、これが以後氏の農業指導における大きな背景となる。

(21世紀農場)


 その後、熊本県の農業改良普及員となり、農村青年の教育に情熱を傾け、熊本県菊池郡の開拓地に入植。強酸性の火山灰地質といった痩せ地で農民としての道を歩み始めるが、ここで言い知れぬ挫折を味わう。

 当時は日本の農村を立て直すといった方策が国にも農民にも見えなかったどん底の苦境期であった。1958年(昭和33年)、国際農友会の研修生として当時世界農業の模範となっていたデンマークへの2年間に渡る渡航研修を経て、帰国後熊本の農場に復帰、以後1982年(昭和57年)に定年退官するまで熊本県立農業大学校にて農業後継者の育成に専心する。

 熊本県立農業大学校で教鞭をとるかたわら、農業事情の調査・研究のため、氏は何度となく自費をもってアジアの国々を巡っている。そして自ら指導に携わったアジア諸国の留学生の話などからひとつの壮大な夢を育んでゆく。

(21世紀農場)




















 ある科学誌によると、私たちの地球の人口扶養力はごく普通の生活水準を前提とした場合、20~30億が適正と言われる。一方で、今日の地球はこれを大きく上回る65億4000万の人口を抱え、年々8千500万人が増え続けている。扶養力の3倍を超えるこの人口増をどう養ってゆくのか。日本と人類のため、21世紀の食料事情と地球環境問題、さらに南北格差の是正や次の時代を担う農村青年の育成に賭けた氏は定年退官後の1983年(昭和58年)2月、誰に請われたわけでもなく59歳にして単身タイへ渡り、130~150万とも言われる貧しい高地民族の支援に乗り出す。


(苦難の時代、前チェンライ農場)


 北部タイに渡った氏は循環式有機農法の普及、研修農場の設立、農業に携わる青年の育成という大いなる夢を持って行動を起こす。
 当時、山間部の高地民族の暮らしは想像を絶する貧しさに覆われ、現金収入を得る道は唯一ケシの栽培に手を染めるしかなかった。そんな環境のもと、寝食を忘れ中古トラックに寝具や食器を積み込んだまま、山深い村から村へと日夜ケシに代わるコーヒーや茶、大豆、椎茸、里芋、しょうがなどの換金作物栽培の指導、トイレの改造や水道施設の建設に奔走する。

(1990年、現21世紀農場開園時)
 しかし、たったひとりでこうした運動に取り組む氏の前には次から次へと予想外の難問が立ちはだかる。転地を繰り返す日々。持参した退職金は使い果たし、望む成果が上がらぬまま長い苦悶の日々が過ぎてゆく。農場に掲げられた前チェンライ農場の一枚の写真はこの苦難の時代を雄弁に訪問者に語りかける。

 日本に残った夫人や家族は物心両面で氏を支え続けるが、氏のタイにおける窮状を知った友人や教え子たちはこの高邁な志に共感、国内で支援組織を立ち上げ、やがてこれが大きな広がりをみせてゆく。

(21世紀農場に実る稲穂)


 こうした支援の輪を背景に1990年(平成2年)、パヤオ県チュン郡サクロウ村に農場を開設。7回に渡る転地の末、ここに新たな挑戦が始まるのである。

 地道に積上げた活動はやがて大きく花開き、今日この「谷口21世紀農場」では農業技術指導にとどまらず、現地農業高校生の受け入れなどによる農業後継者の育成、HIV・エイズ患者やその家族への支援、環境保護の植林、農村部における貧困対策等の一環としてミシン400台を保有しての技術指導、日本の里親を募ってここから奨学資金制度を創設するなど多彩なプロジェクトを展開しており、その苦闘は著書「エイズ最前線」ならびに「熱帯に生きる」に詳しい。

 地球規模の壮大な信念を背景とした氏の地域社会への貢献はタイ政府によるNGO認定に始まり、チェンマイのメ・ジョ大学からの名誉農学博士号授与など、内外の高い評価は枚挙に暇がない。

(PTR (Phayao Taniguchi Rice))
 谷口巳三郎博士。当年とって85歳である。大正生まれの「肥後もっこす」にして旧陸軍少尉。偉業とともに紹介される農場での規律正しい生活。いったいどんな厳格な方かと襟を正して訪れた21世紀農場である。
 しかし、そこに待っていたのは想像とはまったくかけ離れた穏やかな老翁であった。凛とした風貌の中にも、それとなく訪問者を気遣う優しさ。ひと言ひと言噛んで含めるような穏やかな語り口。予想はまったくの杞憂に終わった。


(21世紀農場食堂遠景)


 美しい農場である。たわわに実った稲穂は吹く風に揺れ、豚は子豚を従えて歩き回る。付きまとう子猫も緑の芝にのんびりと横たわっている。
 数々の農業書に埋もれた質素な氏の居室に無駄なものは何ひとつない。農場開設時の1990年、ここは樹木もまばらな荒地であったという。
 チュンの町から農場を経て遠くチェンライの県境まで、5万本におよぶ木を植え続け、荒れ野を農地として開拓し、これほどの農園にするには人知を超えた苦労があったことであろう。その活動の原点は「今日、人類の抱えている生存の危機‐人口の爆発的増大、食料不足、環境汚染等‐に対して農業開発及び農村青年教育を通じてその解決に貢献せんとするところにある」とのことだ。

 現在、谷口農場の完全有機農法によるインディカ米は“P.T.R. (Phayao Thaniguchi Rice)”として国家登録され、里芋などとともにバンコクの日本料理店にも出荷されている。さらに今日の農場では人類の食料危機を救う最後の農作物として、南米北部原産といわれるキャッサバの育成に注力しているとのことである。

(21世紀農場の食堂)
 谷口21世紀農場には毎年、タイ文部省が認定する教育実習カリキュラムとしてメ・ジョ大学、ラチャモンコン大学、パヤオ農業高校の研修生はもとより、わが国からも鹿児島大学、佐賀大学、さらに千葉県の松戸市立松戸高校の現役高校生までもが研修に訪れるという。

(「例え失敗したとしても、やってみることにこそ価値がある」)
 タイ王国は今日、観光立国として世界中から多くの人々を集め、経済面においても飛躍的な発展を遂げている。その象徴が東南アジア有数の煌びやかな大都会バンコクであろう。一方で、この国の経済基盤を支えているのはまさしく農業であり、地方における農民の暮らしこそがタイそのものであろう。

 食堂に掲げられた「希望があれば瞳は輝く 希望は自ら作るもの 今、君の瞳は輝いているか」のスローガンがまぶしい。黒板に書かれた氏の好きなひと言、“It is worth attempting even though we fail”(例え失敗したとしても、やってみることにこそ価値がある)は、私たちに限りない勇気を与えてくれる。


(谷口博士邸)


 今日、北部タイの高地民族の人々にとって、ケシに代わる換金作物は「とうもろこし」に行き着くとのことである。しかし、植付けから販売に至るまで、1家族5人としてその年収はTHB 15,000.-ほど。これは日当換算するとTHB 50.-以下という生活環境であり、子どもたちに教育を受けさせたい思いはあるが、その金がない。

 約2,000人が学ぶというチェンライにおける高地民族の子どもたちの学校。この地域では麻薬に係わった罪で親が服役している子どもたちも多く、貧しさから年間30人程度が辞めてゆくという。1年間THB 1,000.-の資金で、こうした子どもたちをサポートする方策もとられてはいるが、実際はその半分位からしか資金が得られないというのが実情とのことである。ここから、現金収入を求めて都会への出稼ぎが増え、HIV罹患といった貧困の連鎖が生まれている。

(チュン総合病院 HIV棟)
 農場訪問前、印象に残る出来事があった。チュンの町外れ、氏も支援するチュン総合病院での出来事だ。
 ここはHIV病棟を併せ持ち、エイズ撲滅運動に成功した数少ない例として世界各国からの視察も多いが、現在も週一度の検診日には50名もの人々が訪れる。HIV罹患率はなだらかではあるが今も上昇傾向にあるという。

(チェンの街並み)


 病院の駐車場を横切る氏は腰をかがめて何かを拾っている。ひとつ、またひとつ・・・、何かを拾っている。傍を通り過ぎる人々は誰もその姿に見向きもしない。「いったい何を・・・」と思った刹那、著書『熱帯に生きる』の一節が脳裏をよぎった。
「・・・・・・!」
 なんと、数々の偉業に輝く谷口巳三郎博士、85歳の老翁は駐車場に散乱するゴミを拾っていたのだ。こうした美観を守るといった小さな行為は私たち日本人なら誰もが持っていた、そして、みなが忘れてしまった道徳観念であろう。

(谷口博士邸書架)
 貧しき者、弱者への支援。「なぜ、先生はそこまでして・・・」の問いに氏は答える。
「それはですね、国境や人種といったものを超えた人間そのものへの愛です」

 夢は「この農場をアジア全土から世界中に広げてゆくこと」とのことだ。
 今、氏は隣国ミャンマー政府の要請もあり、パヤオと同じような農場をヤンゴン郊外とチュントーンに立ち上げるべく、また新たな挑戦に入った。発展途上国への支援は単なる甘やかしになってはならない。限られた資金を有効に使うには、相手の生活様式から歴史・文化を尊重し、対等な人間として理解した上で相手に則した支援が必要である。すなわち、ハード面だけでなくソフト面の充実あってこそ真の交流や信頼関係が生まれ、道が開けてゆく。

 氏は今日のミャンマーに赴任当時のタイ北部を見たのであろうか。


(農園近郊の風景)


 筆者はこれまでタイ各地を旅してきた。パヤオ市北東部の村にある谷口21世紀農場は西に小高い山並みが連なり、東は見渡す限りの田園地帯が続く。何があるわけではないが、ここにはこれまで見たこともない夢のような美しい景観が広がっている。
 ここは人の手によって創られた桃源郷なのであろうか。谷口巳三郎博士の意志はもう「神の領域」なのかもしれない。そして、この志を日本から支え続ける夫人や事務局などの支援組織、人々の地道な善意もまた同じ「神の領域」なのであろう。

 北部タイの小さな町、病院の駐車場でゴミを拾う氏の姿が今も鮮明に脳裏に焼きついて離れない。これを意味のないことと笑えるだろうか。
 「美しい国、日本」への道も「国家の品格」も、すべては私たち一人ひとりの心の中から育まれるものである。

<参考文献>

『エイズ最前線』谷口巳三郎著(熊本日日新聞情報文化センター)


『熱帯に生きる』谷口巳三郎著(熊本日日新聞情報文化センター)






『二十一世紀の“肥後モッコス”・谷口巳三郎の人と業績』北部タイ農村振興支援会会長・沖村好運編
『二十一世紀農場便り』タイとの交流の会・徳永龍編
他多数

(注)谷口巳三郎博士の著書『エイズ最前線』『熱帯に生きる』は自主流通本であり、現在一般書店における入手は不可能である。ご希望の方は下記にご照会されたい。
 両書ともタイを知るに極めて優れた書物であり、多くの方々にご一読をお薦めしたいが、今はただ増刷による一般流通を願うばかりである。

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「タイとの交流の会」‐谷口プロジェクト‐ 事務局
〒861-1200 熊本県菊池郡泗水町富原205-18
TEL 0968-38-3035
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※本稿はタイ・バンコクにて発行されている日本語情報誌「Web」2007年1月16日号に掲載された記事に加筆・修正したものです。

【写真・文】小田俊明  旅行作家。大手エンジニアリング会社に在職中、中東を中心に世界各地の大型プラント建設プロジェクトを歴任。早期退職後、2002年より執筆活動に入る。タイでは同国政府観光庁他の要請により、日本人にまだ知られていないタイ各地を巡り、その魅力を現地バンコクの情報誌等を通じて紹介。中高年層にも向く新しい切り口の紀行エッセイとして『ウィエン・ラコール・ホテルの日々』(文芸社)にまとめる。

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